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推察するということ

ここで少し推察すると言うことについて考えてみたい。推察すると言うことは単に当てずっぽうで言うことではない。推論というのは経験則に当てはめたり、きちんとしたデータに基づいて言及することである。

たとえば、名古屋からおよそ200Km離れた富士山の麓にAさんが2時間後に移動したとする。それを聞いてあなたはAさんが時速100Kmで走って富士山まで行ったと言うだろうか?また、そういったことを他人から聞かされて納得できるだろうか?
江戸時代の人ならまだしも、今の日本には新幹線も電車も自動車もあることは誰でも知っている。日本はアフリカのサバンナの真ん中にいるような状況ではない。そうした移動手段を使えば200Kmを2時間で移動する事は決して不可能なことではない。
また、Aさんが家の前のバス停でバスを待っていた、駅の新幹線の切符売り場にいた、道路でタクシーを止めようとしていたなどといった目撃情報があれば、たとえ実際の乗っているところを見かけなくてもそうした手段を使って移動した事は容易に想像できる。

科学的発見などはいつもそんな形で発表されるものだ。誰も生物の細胞内で起きていることを目にすることなんてできない。しかし、様々な実験を通じて、いろんなINPUTに対するOUTPUTを見て、細胞内でこういう仮定で事象が起きていないとつじつまが合わない、ということが見つかるから、それが存在するものとして推論が成り立つのである。

推察するするということと当てずっぽうで言うこととは全く違う。



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